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本誌紹介

第3号
〜コトバの深部〜

ディープ・ブルー  兵頭全郎

 「コトバの深部」という今号のテーマを考えるとき、まずどこをゼロ地点・基準点に置くかを決めようと思った。おそらくメンバーそれぞれが違う位置からの「深部」を探ったはずだが、私の場合は「日常の会話レベル」を基準にした。私を含む4人が今回の句に書いた単語だけに絞ってみたとき、日常との距離で大まかに分ければ、近い方から、畑/兵頭/清水/吉澤、の順になろう。この距離感から、それぞれの「深部」を見ていく。

  浅き部屋つまさき立ちの集いあり    畑美樹
 「狐日」(狐日和?狐火?)と題された1句目。(テーマ「深部」にのっけから「浅き」で切り掛かるあたりが畑のオチャメなところか。)さて「浅き/部屋」「つまさき立ちの/集い」と、ひとつひとつの単語は身近にありながら、組み合わされただけで日常からは遥かに遠くなる。実感的に解釈すれば、例えば水害にあった町で比較的浸水の少なかった部屋に人が集められた、という風景なら想像できるだろう。しかしこれではいかにも言葉の表面をなぞっただけの読みになる。何が「浅き」なのか。地下、水面下、建てられてからの日数、ゴミの量…様々な選択肢が浮かんでくる。そのどれを選んだかで後の「つまさき立ちの集い」の様子が変化する。つまり「浅き」が含む言葉の射程距離=深部、として句が構成されている。これは後の「ふくらみを〜」「放物線に〜」「べきことの〜」「うす桃を〜」も同様である。
  前書きを象が泳いでいったきり     畑美樹
 この「前書き」も先の句と同様の読みができそうだが、こちらは「前書き」の内容は最初に必要ではない。象が泳げることがまず重要なのだ。しかもその象は「泳いでいったきり」見えなくなってしまった。ここでようやくこの「前書き」がどんなものかを想像する。または何かの比喩ととらえてもいい。ここからは完全に読者の世界だ。畑は比較的日常に近い位置の単語を選び句の外側に空間を築くことで、読者の持つ言葉の深い部分を引っ張りだそうとしている。
  二等星二万光年穴の水         畑美樹
 前号で畑のひらがな作品に触れたが、こちらは漢字だらけである。「二等星」も「二万光年」も天体として特出するものではない。ただこれは地球から見て、という但し書きがつく。むろん地球人なのだからそれでいいのだが、実は「穴の水」を覗き込むような狭い視野でしかない、という意味が成り立つ。が、かなり強引な読みであり、句外に空間をあらかじめ見つけていないと、読者は「二等星」の方にしか立つことができない。星の説明の分量が多すぎて、手短にわかりやすいイメージを作ってしまうからだろう。

  至言とはアルミ箔から始まる日   清水かおり
 【はざま】の1句目、「至言(物事の本質を適切に言い表した言葉/大辞林)とは」、という問いの言葉自体が適切さを要求している。いわゆる問答体の句の問いの語にここまで堂々と「言葉」そのものの究極を持ってきたものを見たことがない。もともと旨いこと言ってやろうというのが川柳ともいえる。(この啖呵の切り方が清水のオチャメさか。)そこでその答えが「アルミ箔から始まる日」である。これも実感的な解釈なら、前日の残りの鍋か何かにかけたアルミ箔をバリバリ剥がすところから一日が始まる、つまり人の生とは一日一日の生活のつながり…といった教条的な読みが手っ取り早い。これは「至言」という言葉の生真面目さと、結びの「日」という生活に近い言葉の組み合わせが、読みの幅を狭めすぎてしまったのではないだろうか。「至言とは」という大胆な問い掛けには更なる深みが存在するように思う。
  野哭や銀河 眩暈の書架に少し飢え 清水かおり
 先ほどはオチャメと言ったが、いつも清水はこんなに句の頭から啖呵を切っていただろうか?少なくともLeaf のこれまで二冊とは入り方が違う。「野哭(やこく)」は加藤楸邨の句集の題か。「銀河」とつく句集は山ほどあるようだが、この句の中では素直に夜空を見上げた方がいいかもしれない。「眩暈の書架」とは、書店のように大小雑多に並んだ本棚というより研究施設のような場所で整然と大量に並んだ書架のイメージを持った。「少し飢え」という体感で結ばれた句の前に、あまり使われることのない単語で構成された舞台装置が設定されることで「少し」で比較される全体的な「飢え」が増大されている。
  「朱雀の朱はおそらく煮沸」     清水かおり
 この「」自体が何かの【はざま】だろうか、と考えてみたのだが、前の句の「他人の血」と次の「逆説のレリーフ」の間ではないかと思った。陵墓の内壁に描かれた「朱雀」と「血」の赤。連歌のようになるが、なら「」は不要では、とも思う。清水の句には「…の〜」と形容された名詞が数多く書かれている。既成概念の外側での形容の場合はイメージの創出という面で有効となるが、掲出句のような内向きの形容の場合、そこに続く言葉にはかなりの驚きや期待感を持ってしまう。好意的に読めば「おそらく」という単語の無責任さみたいなものを感じはできるが、逆に「」の存在を完全に否定することにもつながる。今回の中で一番難しい句であった。
 【はざま】の題の通り、多くの句に言葉による空間が作られている。「野哭〜」でも一字空きを挟んだ三点で大きい空間ができているが、他は概ね二点の間を作っているようだ。これらは畑が句の外部に空間を置くのとは対照的に、句の内部のスペースである。読者は日常からやや離れた言葉の狭間で遊ばされることになる。

  常世坂 産土の滝 童女羽化     吉澤久良
 「とこよざか」「うぶすなのたき」は架空の地名か(おぶすなの滝は恵那にあるようだが)。いずれも命の誕生と終焉とにかかわる単語を地名にすることで、イメージの具現化を図っている。全体的に神話的(おとぎ話的)構成なので、吉澤のいつもの三部空間よりずいぶんおとなしい印象があるが、これは「羽化」という吉澤のオチャメな部分が出た結果かもしれない。
  止まり木に鶸の屈託暮れ残る     吉澤久良
 「鶸の/屈託」と上下を切ると比較的読みやすくなるが、この句は「屈託」までが止まり木にあり、暮れ残っている。「屈託ない笑顔」のように普段は「〜ない」がつくことで使われることの多い「屈託」が止まり木に暮れ残る。しかも「鶸」という小さな野鳥の退屈とかもやもやとかが、である。通常なら気にも留まらないであろう場所に目をやる句といえる。
  まなうらの宦官のまなうらのコトバ  吉澤久良
 「まなうら」は「眼裏」か。いや、どうも「愛娘」などの「まな」ではないだろうか。瞳を閉じて思い出す「宦官」が心に抱き続けた「コトバ」。そこにはこの宦官を含め周囲にいた人々の「まな」が脈々と繋がれているようだ。通常「…の〜」の連続はイメージを次々にクローズアップしていくのが普通だが、この句では「まなうら」をもう一度挟むことで、ドアの向こうのドアを次々開く感覚になっている。ただ、今回は私も「コトバ」を句に取り上げたが、「コトバ」という言葉は非常にズルい。意識や感覚を思考につなげる段階で、それら無形の存在が「コトバ」という具体になってしまうからだ。つまり「コトバ」はそれだけで「生命」のほとんどの部分をカバーしてしまう言葉なのだ。それだけに掲出句や弊句の「コトバ」という言葉がどれほど表現に耐えることができているか、熟考したい所である。
 吉澤の句の構成は、日常とはかなり離れた場所の句語が合わさって、一つの(あるいは複数の)普段は見ない(あるいは見えない)世界を可視化し、それを読者が覗き込む形になる。つまり、句語そのものの奥行きから読者のイメージを喚起するものとなっている。

 三者の句について、どこに「空間」やイメージを結ぶかを書いてきたが、実際に表現として書かれている言葉の深部を探ろうとすると、日常に近い位置にある言葉ほど探りにくいのがわかる。音や画像と比べて、言葉はそれ自体が「理解すること」と直接結びつきやすいため、日常の言葉はそのまま理解のための言葉になってしまうからだ。使い慣れた言葉ほど、それとは別の面を見いだすことが難しい。浅いプールと深いプール、どちらにより安心感があるか、とも言えるだろう。
 たとえば「ディープ・ブルー」というと深海のような濃い青色をさすが、ここでいう「ディープ=深み・濃密さ」という感覚は一方向からのものでしかない。実際、深海の深い青色は太陽光が次第に届かず薄くなったことの代償でもあり、より深いところまで届く青い光の成分が、わずかに漆黒を照らしているだけとも言える。色彩としてのディープ・ブルーも可視光線の反射がかなり少ない色である。
 同様に「コトバの深部」という深さも、日常の側から見て、という但し書きがつくだろう。表面的な意味に対して語源・根源的な深さや、普段使いの会話語に対して古語的・時代的な深さ、あるいは建前に対する本音といった心内の深さなどなど、進み方でその内容が変わる。しかも、深部=濃密という図式は、同時に世間からの遠さや現代社会との乖離、共感性の希薄さといったものを孕んでいる。作り手としてだけでこの「深部」に足を踏み込むと読み手がどれだけその歩みに近づけるかを忘れそうになる。
 その意味でも、句のどこに「空間」を置くかは、作り手・読み手ともに重要となる。いつもいる場所だけから見ていては、至近距離にあるものの陰に隠れて、すぐそこにあることさえ気づかないこともあるだろう。特に読み手には、「日常からはずれて見る」ことに慣れなければ「深部」にたどり着くことがなかなかできない。無論そこまでの道標は作り手が用意するものであり、お互いの足並みが揃ってはじめて「コトバの深部」に触れることができるのであろう。蛇足かもしれないが、この深部にあるものは、作り手が用意したものであるとは限らない。句を読むことで読み手の深くにあるものに遭遇することの方が圧倒的に多いものだと思う。

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