第3号
〜コトバの深部〜
- 群れと会う日 畑美樹
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リーフの読みも三回を重ねた。毎回、自分の中で新しい楽しさを発見する。そしてもちろん、三人の仲間の、ぱーんと肘を伸ばしたような緊張感や、ほくそえんでいるような苦笑いとも出会うことになる。
好みや性差もあるだろうが、清水かおり作品は、三人の中で最も胸に入り込んでくる。吉澤久良作品、兵頭全郎作品は、こちらから迎えにいくと、思いがけず私の玄関に来ていたりする。そんな印象を、今は持っている。
かおり作品は迎えにいかなくても入ってきてしまい、久良作品、全郎作品は迎えにいくと居座るのだ。その居座り方に違いがあるのだが、はっきりと音を立てて居座ったことを示す久良作品に比べ、音立てずにひたひたと近づく全郎作品には、怖さも感じている。
清水かおり【はざま】から読んでいこう。
至言とはアルミ箔から始まる日
睡蓮の一つくらいは首であれ
私の月もあるサグラダファミリアのとなり
まず、一読して「サ行」の音が入り込んでくるのがわかる。至言のシ、睡蓮のス、サグラダのサ。他にも、書架のシ、神学生のシ、円錐のス、朱のシ、笹のサ…。ほとんどの作品にサ行が配置されている。
無意識なのか、意識的なのか、それはわからない。しかし、そのサ行音は、日常の【はざま】の小さなささくれに投げる清水の視線そのものに思える。サ行音たちは、タイトル、【はざま】のザとも呼応して、清水の視線の波紋を、私たちに投げてくるのだ。
朝食の準備の台所で、ふと触れたアルミ箔のサリサリとした金属的な音。そんなはざまに、日々の暮らしの真実はある。
そして、昼間、ふと見た水面をたゆたう睡蓮に、立ち止まることを許されない日々の生を思い、きっぱりとした死への憧憬さえ思う。
完成まで長い時間をかけることを許されたサグラダファミリアの空は、死を超越している光景への憧憬か。
今回の作品群の中で、サ行音が印象的に使われたこの三句。朝のシ、昼のス、夜のサ。シ、ス、サ、シ、ス…。永遠に繰り返されるサ行音のはざまで、清水はコスモスのように揺れながら、いや、揺れているように見せながら、現世のすべては洗礼なのだ、と達観して見せる。
清水の作品は、これまでバックストロークでは七句、川柳木馬では十句、群れとして読むことができた。リーフでは、それ以上の十五句(吉澤、兵頭は二十句)。こうして、十五句の作品群として三号まで読んでみて、私の中で清水の作品の印象が変わってきたことを感じている。今回感じたサ行音もそうだが、一貫したテーマを引き寄せることへの意識がとても強い。さらに、一度引き寄せたテーマを、日常に戻すという作業の過程は、十五句の群れで作品を読んでみて、改めて感じたことだった。
たたかいの二片ほどを暗記する
秋風や弾力のあるパンの耳
万象の箱軋ませる神学生
円錐の穢れと思う他人の血
リーフ創刊号でも、清水は永遠という神のような存在を想起させる作品を見せたが、今回もそれに通じる作品群があった。
時に堂々と相対しながら、神との暗黙の約束のようなパンの弾力を飲み込み、時に身を小さくして神学生の箱や血の流れる音にまで神の奏でる音に耳を澄ます。ここで清水が存在を確かめようとする神は、神格化されたものではなく、あちらこちらに撒かれているかのような虚像のようなもの。サ行音がさらさらと流れてゆくように、今日の日も、神の夜もまた、流れてゆく。
清水(シミズ)のシも、いつか流れてゆくいのちのはざまで、生きている。
吉澤の作品は、こうして群れとして掲出されなくても、じゅうぶんに個性を感じさせるものはあった。しかし、二十句という作品群は、それまで感じていた個性が、より強烈になった、という印象がある。清水の作品が、十五句まとまることで、これまで余白にあふれていたテーマを救い採って見せたのに対し、吉澤の場合は、用意された余白に向かって絵筆を振るっている、という印象とも言えるだろうか。
桜闇鏡にうつらば異類とならむ
蒼穹に半眼 配達夫未着
《亀裂》十句のうち、前半五句。いずれも、仮定、あるいはまだ起きていない、これから起こりうる事象を読んでいる。桜闇に囲まれ、その闇を映す鏡をのぞきこみながら、やがて訪れるかもしれない、訪れないかもしれない異界への入り口を待つようだ。異界の入り口らしき趣の「戻り橋」やら「産土」やらにその兆しを探し求め、半眼となっても、それはまだ見えない。
茶会果て僧侶は肉を吊りにゆく
左官来て蝶に自虐の白を塗る
そして後半五句。半眼がとらえた異界らしき景が並ぶ。僧侶が肉を吊る姿や、老嬢が蛍火に照らされて産卵する光景、鈍器が唾する光景。いずれも、有りもしないようで、もしかしたら、と思わせる具体性を帯びている。そして、最後には左官がやってきて、異界へ誘う蝶を塗りつぶし、すべては無かったことになる物語。そう、物語。意味を求めている、というよりも、句の連なりによって構築されうる物語を、吉澤は展開している。
《窯変》十句では、その続きの物語。
なのはなばたけ一角獣つがう
少年の眠りに蛇は根をおろす
樹上の騎手それぞれの余罪
僧侶も老嬢もない遠い異界には、一角獣やら蛇やらが神話のまねごとをしている。樹上に群がっているのは、現世で鞭打ってきたものたち。現世の万人がそれそれの方法で力で鞭打つ存在であることが、余罪の一語にこめられている。
まなうらの宦官まなうらのコトバ
物語のおしまいに置かれた一句である。
一連の物語として読めば、直前の句、
翁面して押し問答の図である
から続いて読むことで、宦官という、なさそうでいくらでもあり得る立場、役割の現実感が増してくる。翁のような柔和な顔をして、己の役割を演じながらも、まなうらにびっしりとコトバを隠し持つ宦官。
時に半眼をして、異界も現世も見てみぬふりをしている私たちの《幻視》。
物語として楽しく読んだ。川柳の楽しさを押し広げてくれる二十句。一方で、一句、一句と向き合った時の楽しさをや?
兵頭も、作品群として句をとらえる傾向は強い。しかし、吉澤が余白に絵筆を振るうような物語を構築しようとしているのに対し、絵筆ではなく、架空の積み木で三次元を積み上げていく、という印象である。
タイトル《temperatur》。温度を表すドイツ語。ドイツ語では女性名詞である。
例えば話す言葉は、その声の大きさよりも、トーン、温度に近い要素のほうが、伝達を左右する場合がある。女性名詞である所以がこのあたりにもありそうだが、
脱ぎながら鳥獣戯画を思い出す
つづきにも戸惑いやがて背中を噛む
タンゴより熱い囁きノブの錆び
などは、明らかに女性を感じさせる。鳥獣戯画のような雑多で執拗で、ゆえに生々しいその一瞬。そして生々しさは時に静寂の中で醸成して背中を露にし、ノブさえ湿らす。そして、
何もかも微笑口笛屋根裏部屋
この強かさ。女性である。
そのまま素直に読めば、女性であるところの性を匂わせる言葉選びなのだが、兵頭は男である。その事実が、読みの自由さをあえて仕組んだのかもしれず。
口移し折れそうな台詞の乱れ
はみ出した祝詞チクタク揺れながら
飛び込み台から誓詞の渦のぞく
在処には結詞結局空の穴
コトバ、とルビが添えられた四句。なぜか、女性も、温度も感じられない。コトバとルビがあるだけで、また、それが四種類の似たような単語であるだけで、時も、息も止まってしまったような。読まれているのは、そのコトバたちの状況だけで機械的に並んでいるのに、逆に言葉の可能性を引き出しているように思える。
言い換えれば、兵頭はこの四つのコトバだけを伝えたかったのであり、この四句の中にあるそれ以外の表現も単語も、他の何でもよかったのではないか、と。
対岸に乳白色の流れ 黙読
真空へ閉じる緋色の硯箱
紺碧を離れてかたまりになる珠
対岸とは、彼岸を示唆するものだろうか。黄泉を連想させる乳白色。それをただずっと、じっと見つめながら、ただ今の我が生を噛みしだく。続く二句は、鮮やかな夕焼けと、その彼方のやはり西方浄土を連想させる。二十句の中で、最も兵頭自身をはっきりと感じさせる三句であり、温度である。
この最後の三句が、こんなふうに兵頭の温度を感じさせていることは、おそらく兵頭にとっては計算外だったにちがいない。
最後に、テーマ詠《消失》。
それぞれの消失のとらえかたの違いが、これまでで最も興味深かった。
上空の鮫砕け散るぼくらの放課後 吉澤久良
跡だけを残しイキモノシャララララ 兵頭全郎
手渡した透かし菊水 夜になる 清水かおり
上空の鮫とは、青春という季節のきらめきを指すのだろう。吉澤の消失は、泡ぶくがはじけて消えてゆくような、その瞬間。
人間も含めてイキモノはやがて消えゆくもの。万物共通の摂理であるなら、潔くあれ。兵頭の消失は、潔さとその余韻。
水に浮かべた菊の黄は、やがて夜の闇に溶けて、またよみがえる。清水の消失は、消しても消しても消えないものたち。
作品群というものについて考えたリーフ三号であった。
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