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本誌紹介

第3号
〜コトバの深部〜

揺さぶられる  吉澤久良

   《「狐日」 畑 美樹》
  ふくらみをそっと差し出す土筆売り   畑美樹
  計量を終えて傾く乾物屋
  うす桃を秤に載せておとなりへ
  飴色の一枚ずつを順送り
  聞き歩くぎいと動いてゆく貝を
 畑美樹らしい句である。畑美樹は世界を自分の感覚に沿って写し取る。一般論として、そのデフォルメの屈折具合に作者の個性が表れるものであるが、美樹作品の場合、外界の事物がまずあり、その流れに沿う形で心の姿が切り取られる。強烈な個性によって外界が捻じ曲げられるという形ではない。沿うことが畑の個性なのだ。
 美樹作品の特徴は「を」である。「AをBする」(あるいは「AをBするC」)という構造の句が多い。もちろんAやBやCの取り合わせは日常世界のそれでないことはいうまでもないが、一文としての文法的関係は守られている。それは個性によって捻じ曲げる書き方ではないことと関係しているのだろう。右の掲出五句もそのような構造である。「うす桃」「飴色」と色彩だけが流れていく作品世界に、美樹作品の色鉛筆の淡彩のスケッチのようなサラサラ感、透明感がある。そこには外界と一体化している作者がおり、その一体感が読者に安心と爽快感をもたらすのだろうと思われる。ただ、「聞き歩く」の句については、無理に五七五に仕立てたという窮屈感があり、倒置にしない方がよかったのではないかと感じた。
 しかし今号では違う構造の句が増えた。前述のような「を」を中心においた構造の句は前号では八句あったが、今号では掲出の五句に減った。
  なまぬるい魚の腹から三国志
  べきことの三年未満明けの海
 畑美樹は、今まで一句にこんなにたくさんのことを書いていただろうか。もっとさらりと流れるような句であったはずだ。さらに、美樹作品で「なまぬるい」と不快につながるような感覚が書かれたという記憶はあまりない。そのせいか、「なまぬるい魚の腹」から「三国志」への飛躍は成功しているとは思えない。また、「べきこと」の句は抽象が三つ並んでいて句が読者に届きにくい。美樹作品に不協和音が混ざり始めたという印象がある。しかし、掲出の二句は新たな試行のための避けられない失敗である。その試行の延長上に、次の二句がある。
  前書きを象が泳いでいったきり
  雲上のだらりと伸びてゆく蹴爪
 「きり」の後の寒々とした空漠。作中主体は取り残される。もはや、外界との一体感はない。「だらりと伸びてゆく」という倦怠。この「蹴爪」は蹴爪としての鋭さをもはや持っていないだろう。私たちの上空の「雲上」では、このようにモノがモノとしての個性を失いつつあるのだ。畑美樹の充足はこのようにして破られつつある。
  叫びあうこともはなびらいろの蜘蛛
  芋を剥くやがて流線形の馬
 「叫びあうこと」が「はなびらいろ」と浄化され、さらに「蜘蛛」へと収斂する。「はなびらいろ」が上下双方の措辞をつなぐという形である。小さな「蜘蛛」という存在へのいとしさ。剥いた芋が「流線型の馬」になる。この流麗でなめらかな世界の感触。こういうコトバの流れ方、密度は、畑美樹の新たな可能性だろう。これはかつての美樹作品の予定調和的な匂いのする世界ではない。ギリギリで危うく成立した世界なのである。

   《【はざま】 清水かおり》
  至言とはアルミ箔から始まる日   清水かおり
  秋風や弾力のあるパンの耳
  私の月もあるサグラダファミリアのとなり
  冷ややかな耳寄せて聞く笹の音
 今号のかおり作品は、前号までの作品と少し趣きを異にした日常詠である。社会性や批判性、あるいは実存への問いかけなどは、今号ではやや影を潜め、作者の感懐が描かれている。「至言」について考えたり、「秋風」(これはやや緩い措辞であるが)を感じたりしながら、自分を取り巻く「アルミ箔」「パンの耳」というごくありふれた日常の事物に眼を落としている作者がいる。「弾力のあるパンの耳」と、日常を的確に切り取る視線は、逆にスプリングボードになって〈ここではない場所〉への憧れを準備している。その憧れは、「私の月」「笹の音」の句のように、視覚、聴覚の働きを伴って、「あくがれ出づる心」の感覚となる。月とは古来、特に漢詩では、遠く離れた友人や故郷を思いやるよすがであった。「天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山に出でし月かも」(安部仲麿)のように、遠く離れていても同じ月の姿を見ているとの思いからだった。さらに、「笹の音」とは過ぎ去っていく風の音である。身体はここにあっても、心は風とともに流れていく。
  ゲラ刷りの海に両手をついている
  手渡した透かし菊水 夜になる
 「ゲラ刷りの海」という何かの作業の途中で、ふと「両手をついて」もの思いにふけっている、その放心。「透かし菊水」の句の一字空けは、飛躍ではなく、時間の経過を表している。「透かし菊水」を「手渡した」後、作中主体はぼんやりと待っているのだ。「夜になる」まで。さまざまな想念—せつなさや疎外感やそこはかとない痛みや悲哀……。「透かし菊水」とはどのようなものかわからないが、作中主体のそのような心のありようを暗示している。激しい葛藤ではなく、輪郭の定かでない情緒のようなものが漂っている。これらの句は感傷と紙一重であるが、自分の感情を突き放して作品として成立させようとする作者のぎりぎりの意識が、作品を感傷からかろうじて引き剥がしている。それに対して、
  円錐の穢れと思う他人の血
  逆説のレリーフ 冬は壊れるか
この二句にはやや疑問が残る。「円錐の穢れ」が具体的なイメージなり意味なりを結ばず、そのために「他人の血」への飛躍がわかりにくい。「逆説のレリーフ」も意味が通じにくい。「冬は壊れるか」とあるので、作品全体の流れの中で、鬱屈がベースにあるのではないかと想像できるが、やや抽象度が勝って読者には届きにくい。
  リーフエッジは発着所の冥さ
  速贄の僕らのあらわなる肢よ
 ここではない場所との境界である「発着所」は「冥い」のだ。憧れ、そして不安。読者には切なさの手触りだけが残る。「速贄」である「僕ら」の痛切。庇護されることもない「あらわなる肢」の痛ましさ。「よ」は自己内部へ沈潜していく思いの余韻として響く。
  明滅の刃物祭りに行ってきました
 今号のかおり作品では、この句に注目した。「明滅の刃物祭り」という措辞のキレ、イメージの豊かさはいかにも清水かおりらしい。しかし「行ってきました」は、今までのかおり作品ではあれば、「行く」、もしくは体言止めになって、一句がビシッと尖鋭に貫かれていただろう。この措辞には揺れる心へのいつくしみのようなものがある。書き方の幅が広がったのではないか。日常詠を書いたことの思わぬ収穫かもしれない。

   《「temperatur」 兵頭全郎》
 今号の兵頭全郎は、衣服、身体、音楽などのテーマを設定し、三、四句ごとの連作を並べている。川柳に意味を読むことに慣れている多くの読者からすると、高速回転するコトバの生理感覚だけが見えるという印象ではないだろうか。コトバからコトバへの飛躍を意図する句の価値は、まだまだ一般の理解は充分には得られていない。いったいどれだけの人が立ち止まって全郎作品を読むだろうかという危惧がある。そのためにも、全郎作品には評や解説がより以上に必要なのだろう。
  口移し折れそうな台詞の乱れ
  はみ出した祝詞チクタク揺れながら
  飛び込み台から誓詞の渦のぞく
  在処には結詞結局夜空の穴
 コトバをテーマにしたこの四句は、今号の全郎作品の中心と思われる。これらの句の「台詞」「祝詞」「誓詞」「結詞」の語は入れ替え可能である。それらの「コトバ」の日常的意味は無化され、例えば「台詞」と「祝詞」との差が必然性を持っていないからだ。四句の流れは、「乱れ」「はみ出した」「コトバ」が「揺れ」ており、それを「のぞく」と「夜空の穴」のように暗澹たるものがある、ということだろう。これらの「コトバ」は、いずれも不安や不安定さをイメージさせる。現代人にとっての「コトバ」の不確実性を象徴しているのだろうが、全郎自身が自分の書き方にある種の煩悶や閉塞感を感じているのかもしれない。確信犯的にコトバの日常的な意味を削ぐ形で作句を続けている全郎には、「コトバ」というモノに対して無限定に明るいイメージを提示できないのだ。「折れそう」で、「揺れながら」、「渦」を覗き込んでいるのは、作者自身でもあり、コトバとの位置関係や距離をどう取ればよいかという試行なのだろう。
  対岸に乳白色の流れ 黙読
  真空へ閉じる緋色の硯箱
 「黙読」「硯箱」というコトバに関連するモノが、「乳白色」の不透明感、「閉じる」の閉塞感とつながれる。句は虚無へ収束していくかのようだ。不確実なコトバを媒介にしてしか関係を持てない他者。自分自身について考える際にも、私たちはそんなコトバを使わねばならない。関係の危うさは、作者と読者の関係においても同じである。掲出句には、全郎の認識が表れているのだろう。
 コトバの日常的意味からの離脱ということについては、現代詩の世界では、自動筆記という方法やマチネ・ポエティクの運動があった。川柳でも、渡辺隆夫が古典的な折句、掛詞、地口などのコトバ実験をしている。しかし全郎の飛躍は渡辺の実験とは方向が違う。五七五の枠の中で、一つのコトバからもう一つのコトバをどこまで遠くに飛ばせるかという実験である。全郎は自分の書き方を整理するためにも、本紙2号の「『わかる』の理解」に続く読者論を書くべきだと思う。
  平原はない風がない眠らない
  跡だけを残しイキモノシャララララ
 「temperatur」の句は、一句の中に〈問い〉と〈答え〉があり、その飛躍があるためにまとまっているという印象が薄い。それに対して、テーマ詠は一句にまとまりがある。それはそれらの句が「消失」というテーマに対する〈答え〉として書かれているからだ。〈問い〉を探す手間がない分、読みやすくなっている。「ない」の微妙に変化をつけた繰り返しや「イキモノシャララララ」あたりの音韻的な軽妙さに、コトバを連想的に転がして行く全郎らしい雰囲気がある。こう見てみると、全郎は川柳というカタチだけは信じていると言えそうである。

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