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本誌紹介

第2号
〜融解し浮遊するコトバ〜

立ち位置  畑美樹

 三人の作品群を前に、さて誰のものから読み進めるか、評に取り掛かるか、ということは、とても大きな選択だ。前号の後記で清水かおりが触れていたが、〈読み〉は〈作句への姿勢〉にとても重なる部分がある。四者四様のこの誌では、その傾向が顕著に見えることが一つの収穫とも言えるだろう。
 さて、今号は兵頭の【Melt down】から。
 他誌で見る兵頭の句、文章から感じるものは、言葉に対する渇望であり飢えであった。しかし、今号の作品に感じるのは、飢え、というより熱情に近い。前号の評で〈たんたん〉というイメージを受け取ったが、今号はそれに人間味という濁点を加えた〈だんだん〉。そんな表情を見せている。
  ヒエログラフ確かなことにいのちなく
  神はなく川は一回だけ曲がり
  御犬なく小屋の円弧が黒すぎる
 ヒエログラフ発祥の頃、私たち人間は今よりもはるかにいのちというものに近い存在だったはずだ。人間を含む全ての生きとし生けるものたちとともにあり、文字や言葉というものは今よりもはるかに根源的要素の強いものであったと思われる。一方で、その言葉の行間を埋める表現方法の幅が少ない分、人々は必然的に想像力というものを身につけ、楽しんでいたに違いない。言葉や表現への渇望感を根底に持つ兵頭にとって、ヒエログラフというものは憧憬なのだ。下五の「いのちなく」のひらがな表記には、そんな憧憬への照れと熱情とが、うっすら感じられる。
 +なく+と題した句のすべてに含まれる「なく」は、ひらがなで表記されているが、第一感「無く」として、また第二感「鳴く・啼く」などとして読めるように、兵頭らしい仕掛けがされている。ヒエログラフの句もそうだ。「いのち無く」という虚無感と思わせておいて、「いのち啼く」。その啼く声を、音を聞き入れてしまう、聞き取ってしまう自分自身を、兵頭は作品の中に投げ出そうとしている。もっと言えば、ヒエログラフの時代の言葉や存在の確かさ、確かで力強いからこその「啼く」ことと、そこからはるかに時空を超えた今の自分とを重ね、耐えられないほどの渇望と熱情にうなされている。
 「神はなく」も然り。神などは無いのだ。川が一回曲がること、そんなところにこそ、神らしきものは在る。それを感じるのは自分の在り様でしかないことに気づいてしまったから、黒すぎる円弧に自分の遠吠えを聞いてしまう。
  リムジンは無人 神武の残りの理
 【Melt down】を締めくくる+省年時代+の締めの句。リムジンというおよそ無機質なものと、神武という近くてとても遠い、いわば虚空のもの。いずれも、正体があるようでないものたち。自分も含め、積み重ねてきた年月を省みながら、その実を求めることを渇望し続ける兵頭である。【Melt down】とは、あるようでないものたちの行く末であり、その先の地平への、隠しきれない熱情でもある。

 清水の《細部に宿る》ものは何だろう。
  蛇をまだ飼っているかと夏男くる
  一億のひかがみ乾く幻灯機
  みずうみに浮いているのは繭の視野
 神話においても、実生活においても、蛇というのは厄介で、無視できない存在である。しかも、その存在が突きつけてくる後味の悪い冷たい感触は、いつまでも想像の視野に残る。夏になると現われるお調子者の男も、無視できない存在である。性を匂わす蛇の冷たい感触に、つい身を折りそうになりながらも耐えていると、夏男は素っ頓狂な声をあげて「折れちまえよ」と言い放つ。そんなお調子者の訪いを、待っている自分。
 ひかがみという部分は、いつも陽が当たらない場所だ。夏には、汗のぬめりがいつまでも残る場所でもある。幻灯機に写し出されるのは、しっとりと、じっとりと濡れている過去たち。ひかがみに残っていた汗の名残は、やがて幻灯機の一枚となって、過去へ押しやられる。そうして、乾いたひかがみに、時折り這い出す蛇。
 みずうみとは、存在している自身の世界を指すのだろう。それは家族かもしれない。眷属を含む一族かもしれない。そこに浮かべるのは、手も足もまだ生える前の繭。眷属の垢を知らない繭の白さは、残酷な白さである。
 前号の読みで〈しんしん〉というタイトルをつけた清水の句。そこには、とても強く、静かに湧きあがるような毅然とした印象があった。今回は、その静けさの細部から、〈じんじん〉と湧きあがるような、痛みと抗いが見える。言葉への信頼をしっかりと抱えながらも、細部に宿ってしまう、自身の痛みへの抗いであろう。
  洞かげる暗唱つづく昆虫記
  艶然とある教画のめくりあと
  連なった ほらもう傀儡の硝子体
 家族が巣くう場所としての洞。夕暮れどきのその洞の中で、意味もなくファーブル昆虫記の暗唱が続く情景から感じるものは、性を内包する生への痛いほどの恐れであり、覚悟でもある。
 教画に残されためくりあと。そもそも、教画そのものから、人間の全ての営みの清も濁も、そして性も諾もぷんぷんと匂う。ゆえに、めくりあとから感じるものは、めくったであろう人間の人間臭さであり、そこにつながる一族の綿々たる流れでもある。
 綿々と連なる一族。時に傀儡として操られるフリをしながら、いや、意図的に操られながら、四方八方へ光を放つ硝子体となる覚悟が、細部に巣くうことをやめない。ほらもう、という軽やかな語りかけと、傀儡という言葉のどこか諦念じみた響きとが相まって、細部に宿るものたちへのじんじんと痺れるような覚悟が、伝わってくる。

 吉澤は【感触】という表題を掲げた。前号で、記号としての言葉への希求がとても強い、と吉澤の印象を述べたが、今号では、そこから意図的に遠いところで句に挑戦している感がある。それが表題【感触】にも表われている。前号の表題は【架空の痛覚】。架空の世界から、読み手が共感し得る感触へと、自分の視点をずらしてみたのである。前号での読みのタイトル〈こんこん〉は、吉澤自身の中で湧き上がり、その個の外へは溢れ出ないという印象があった。しかし、今号では〈こん、こん…〉と読点ではなく、句点が重なっていくように見えた。
 《急》から。
  凶眼の月 燎原に棒一本
  ネジ式の首据えかえて口の闇
  蝶濡れて首都に繁殖する神話
 真っ黒に焼かれた野原に焼け残った一本の枝。斜めに立つその一本を、昇りくる月が照らし、影を伸ばしている。月の明かりによって、その影はさらに黒々と、野原に突き刺さる。燎原は生命の再生のための行いであり、月は太古から生命の営みを司る。いずれも、生命を包含する一瞬である。
 首を据えかえられたのは、ウィンドーのマネキンかもしれない。あるいは幼子が手にしたおもちゃの着せ替え人形かもしれない。あるいは、人間そのものかもしれない。いとも容易く首据えかえられる現代である。しかし、据えかえる瞬間、「あ」と小さく声を発した口の奥には、枯れることない生命の気配がしぶとく脈打つ。
 羽を濡らした蝶が、雨宿りするまでのほんの一瞬、空中にこぼした粉が、人間が発するさまざまな光に照らされて、ちいさく輝きを繰り返す。
 いずれも、その一瞬の中にある何者かに向かって身を乗り出し、振り返り、急に訪れたその感触に問いかけている。
 《緩》から。
  朝蝉や苦き音叉を受胎せり
  夏の潮記憶の林檎漂流す
  鳥渡るあるかなきかの糸を引き
 夏の朝、降るように訪れる蝉たちのシャワーは、にぎやかなお祭り騒ぎのようだ。しばらくの間、静かにそのシャワーを受け容れていると、何故か自分の中の鼓動や呼吸と重なり、心地よくなってくる。受け容れるまでには多少の時間がかかるが、その時間こそ、贅沢な至福である。苦き音叉とは、朝蝉のシャワーに洗い流されてゆく自身の内部の苦きもろもろを指すのだろう。
 満ち潮、引き潮。その音と風に耳を澄ませ、感触を味わっているうちに、身の内によみがえる林檎の甘酸っぱさ。潮と林檎の感触から連想させるものは、性そのものである。
 いずれも、身を乗り出したい衝動をぐっと抑え、身の内に訪れる感触を待っている。その緩やかな訪れに、自身の新たな表現の訪れを希求しているのかもしれない。

 最後に、《剥離》を読んでみよう。
  修験者の足跡から生える音符    兵頭 全郎
  裸木のなおも形を脱ぐという    吉澤 久良
  「炎上やね」湯葉掬う箸の先    清水かおり
 兵頭は剥離する情景をイメージさせることで、吉澤は剥離の意味をとらえようとすることで、清水は剥離そのものが持つ奥行きに焦点を求めることで、それぞれテーマに向き合っているように思う。
 深い山道をただひたすらに走り、物も食わず、煩悩を断ち、ひっそりと自分と向き合う修験者の日々。しかし、その草鞋の底から、ついうっかりと剥がれて顔を出し、育ってしまう、音符のような欲の塊。剥がれようのない現実がそこにある。
 裸木をじっと見つめる。何も起こらない、何も始まらない孤高たる表情がそこにはある。しかし、見つめるうちに、まばたきの瞬間にさえ、裸木は表情を変えることを知る。ああ、ここにも、決して越えられない畏れの存在があったのか。
 「炎上やね」。湯葉というつかみどころのなさの先にある、箸の一点に、現実という逃れられないものからの剥離の刹那がある。その刹那に出会う楽しみを、歓喜を、表現の糧としているのである。

 2号の読みに臨みながら、読みにおける私の立ち位置の頑なさを改めて感じた。私の課題である。

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