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本誌紹介

第2号
〜融解し浮遊するコトバ〜

読むの四段活用  清水かおり

  —『Melt down』 兵頭全郎 —

 今号の兵頭の作品は言葉の制約を突き抜けたところに描写の展開を感じさせていて、容易に素通り(逃避)させないものがあった。「なく」に溶けているものの正体が多面的に見えながら実は地続きの同じ面なのだというステージに上がった10句。仕掛けがあるのかもしれないが謎解きは得意ではないと思いながら読んだ。
  板の間の間もなく月もしだれおり
  驟雨なく遠く遠くの豆もやし
  ゆっくりはこわい 今日なく欄干
  なく道よ 地平360度
 「なく」の自律性の見事さにつきるといえる。このコントロールとそぎ落とした句形からは空間の息遣いさえ感じる。兵頭=連作というイメージから一句をもって離れることが可能であり、仕掛けへの身構えはごく自然に解けていった。以前、兵頭の句について「あの乾きかたは何なんだろうね」と畑と話したことがあったが、生が吹き込まれたような兵頭の句を目にするのは今号を含めても少ない。私たち柳人は何かしらの制約を自身に課しているものだが兵頭のそれは次第に繊細さを増していっているようだ。
  ヒエログラフ確かなことにいのちなく
 前置きであるこの句がなければもっと自由に読ませてもらえたような気もする。言葉を書くという行為、表意文字の一部であるという認識、が、「なく」というひらがなの属性を聞いてくる。それは兵頭の書く世界そのものの属性を聞いているようにも思える。属性などないという属性、かつて「僕らはノンポリだよ」と言った青年たちの口元を思い浮かべたりした。
  おくおくおく おそれ あくあく あれそれ く
  さくら缶 錯乱 落差から参加
  リムジンは無人 神武の残りの理
 ラップみたいに韻で遊び、韻の繋がりから噴出する言葉のかたちは「現象」を見つけようとしている。像を結ぶ前に像を壊し、壊した像が形を変える前にまた壊す言葉。この流動性に社会の雑踏から毀れる人間の乾ききらないものの存在があると感じるのは感傷だろうか。
 これが兵頭の計算されつくした世界であったとしても読後感は変わらないだろう。

  —『運行』 畑美樹 —

  空なかばアリスはあぁと言ったきり
  まなかいにそっと忌野清志郎
  コバルトブルーの水をちいさく呑む
  さりげなく頬をたたいて見せる丘
  ただ赤をただただ赤を開口部
 前号作品では畑の世界観についていろいろな意見が交わされた。考えてみると畑の世界観と思っているのは自分が作り上げたイメージで逆にそういったものを作品によって引き出されたということかもしれない。畑の社会活動や畑が愛するモンゴルという大陸的イメージが読みのベースに多少あったことも否定できないのではないかと思ったことだった。
 今回、畑が提出した作品はそういった読者の思惑をすりぬけて少し具体性を帯びている。掲出の句は最近大ヒットしたティムバートンの「アリス」に接近した空気を持っていた。進行し続ける時間の中の現実と心の非日常。それは私たちのそれと何ら違和感のない世界である。忌野清志郎のあの強烈なメイクと寂し気な狂気は物語の帽子屋とクロスし、青いビンに入った水は「私をのんで!」と主張してくる。白薔薇に赤ペンキを塗りたくった「赤」の支配。そうしたコトに頬をたたかれて覚めるのではなく、気づくのだ。畑美樹はもっともっと句を遊びたいのかもしれないと。今号のテーマで「浮遊」は畑の作品のイメージとしっくりいく。それが「アリス」という題材に必然性を感じさせている理由なのだろう。異空間の穴を通過する途中の感覚、つまり「あぁ」と表現するしかない代物を楽しんで書いているのである。
  群集の小指の先の糸の月
  雨だれの向こうに黙礼のカラス
 何かを言おうとして言葉を探すとき、「群集の小指の先」や「雨だれの向こう」という距離感が言おうとすることの輪郭を濃くする。糸のようになった月、こちらに向いて黙礼するカラスは次の瞬間には別ものになっているというのに。群集と雨だれによって動かされ、自らも動こうとする月とカラス。運行とは相互作用のなせるものである。
  六月を舐めてお返しいたします
  影干しの手ぬぐいという理由です
 畑は一句の向こうに何かちがったものをいくつも抱えていると感じさせる作家であるが、掲出2句はその畑らしさよりも川柳らしさが前面にある。柳人は絶えず作品の運行というものを考える生き物らしい。

  —『感触』 吉澤久良 —

 言葉が好きでたまらないが言葉に倦むことがある。吉澤の作品を読んでいてふとそういう気分になることがある。難しい内容をより難しく書くアカデミズムのような世界を紐解こうと試みる、その作業の途中でのことだ。
 《急》《緩》という大別したリズムが外観と内意とに割り振られ、至近距離から全体の俯瞰へと視線を移していくーそれがここでの意識だとして、「凶眼の月」「悲の器」「イヴの幻聴」は少々面映ゆい表現だという気もする。生まれ落ちた時から始まる衝動を言葉にすれば、ごく自然に「繁殖する神話」や「土偶の眼窩」の「蟻」たちの言いようのないざわめきがやってくるのだ。このどことなく黙示録的なイメージが今号の吉澤作品全体を包んでいる。
  凶眼の月 燎原に棒一本
  朧夜の荒地野菊を分け老婆
  鏡坂ほろほろ落ちてくる園児
  水無月の魚眼ひとつとなりはてる
 燎原の棒と老婆の存在感、園児の無垢やゼリー状の魚の目が近景の過去を言っているように思うのは、「なりはてる」と言い切られたからか。むせかえるような生と大きな不充足感をとらえながら人々は《急》の不安を肯定し《緩》の澄んだ諦念を見いだしていくのかもしれない。
  空は合板 世界は火事なのだろう
  曙光は雪崩れ私の手の長さ
  頭上の骨格標本 薄墨の松葉杖
 「合板」の「世界」を炙り続ける「火事」、崩れて「私の手の長さ」になってしまった希望の兆し、「骨格標本」を支えるものは「松葉杖」のように心もとない。このような言葉から言葉への負荷を社会構造批判の喩と考えると作品の位置が顕わになってくる。自分と社会との接続部分には幾重にもなった動かしがたい秩序が「合板」のようにある。しかし、「頭上の骨格標本」それこそが私たちの信じてきた世界であったはずなのだと。「作者の存在」は句を構成する素材にすぎないが、ここでは吉澤自身の視線が確かな役割を得ているといえるだろう。
  坂の間を横切る手足のついた花
  ネジ式の首据えかえて口の闇
 手足のついた花やネジ式という言葉だけで、思考がつげ義春へいくのは恣意的と警笛が鳴った。しかしいってしまったものは仕方がない。読者はわがままで句との対峙は自分の中のモノが引きずり出されることでもあるのだから。

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