Live-Leaf

本誌紹介

第3号
〜コトバの深部〜

『狐日』を読む  さやえんどうの「狐日」  清水かおり

 「狐日」と題された十五句はいくつかの場所にいる畑を想像させた。日々の事象の瞬間に立ち会う私たちというひとくくりにされた場所や、個人が属する集合体の中で一番濃厚な血族という場所、そして畑自身の言語空間のまったき場所。畑から「書きたいこと」があふれ出ている。前号から彼女の句の輪郭にゆるやかな変化を感じていたが今号は更にそれが強まった感じがある。『Leaf』のHPで吉澤久良が私達四人の化学変化という表現を使ったが、始まっているのだろうか。化学変化に入る前の個々にとって書きたいものを見つめ直す確認作業をし始めたようにも思える今号作品である。
 川柳に限らず芸術に携わる人が変化を怖れたとき、自己保存(保守作品)への道は避けられない。畑や私のように長く川柳を作ってきたものにとってそれは無意識な言葉の選択として現れることが多い。そういう意味で彼女の今号作品は新鮮な感触を残してくれた。「意味より少しまえに」という畑の表現テーマが変化したわけではなく、意味を書くことも「狐日」の中にいる畑には必然なのだということ、自分が書いている川柳という容れ物を見つめること、それが表現に向かう最初の、鉛筆の先をトンと紙の上に落としたような、はじまりの点であるという認識が句語に窺えるのだ。
  浅き部屋つまさき立ちの集いあり
  放物線に囲まれている控えの間
  チベットの世継ぎばなしとなかゆびと
  なまぬるい魚の腹から三国志
 この四句、私たち読者が畑美樹にみてきたものと彼女のリアルな思考の間に存在している。「浅き部屋」「控えの間」が世俗な国政から世界までを連想させるからだ。もともと彼女の句には、人々の身体から世界へ通過していく風のような意識を感じさせるものが多く、根底にある社会への澄んだ視線が何かしらの問題点を顕示してはいたが、チベット問題、日中関係など、こんなふうに身近に提出されることはなかった。表現者である畑が川柳形式を具体的に利用することなど誰も想像しなかったのだ。しかしあくまでも畑らしい文体とのバランスは読者には非常に新鮮である。「チベットの世継ぎばなしと」の「と」と「なかゆびと」のひらがな使いと「と」の助詞の使い方は、ゆったりとした空間に浮いたり沈んだり、急に大きくなったり消えいりそうになったりする畑独特の文体ともいえる。そこに現れた「なかゆび」。畑美樹も怒れる存在であるという証明の「なかゆび」である。実際に中指を立てた彼女を見てみたいという欲求に私を含め何人かの読者はわくわくしてしまうはずだ。
  飴色の一枚ずつを順送り
  べきことの三年未満明けの海
  芋を剥くやがて流線型の馬
 「葬」が身近にある。私達日本人は人を葬ることに時間をかける民族である。「べきこと」となっていく葬送の儀式は延々と続くが、三回忌までは身近に故人の生を反芻する。飴色になってゆく血の絆、精進料理、「葬」が家族にとって「祭」の空気を帯びた頃、故人は清らかに駆け去っていく。こうしてみると本当に畑の句はやわらかい。言葉のつながり方が心地よいという言い方をすればこの感覚は伝わるだろうか。それに、単に言葉が断定的でないというのではなくて、女性的なものも内包している。「うす桃を秤に乗せておとなりへ」「お針子の膝におさめる冬ぐもり」など、何気なく読んでいたが、「うす桃」と「おとなり」、「お針子の膝」と「冬ぐもり」の句語の取り合わせは、男性には思いつかないのではないかとふと思った。主題がそうである場合を除いて性を意識しながら書く作者はいない。ごく自然に個人の意識など関係のない細胞のせめぎあいの中に性は主張してくる。畑はそういうものに抗わない。受け入れるものは受け入れ、受け入れたものに飲み込まれることもない。そうして
  さやえんどうとも添寝とも書き送り
という心理の際立った作品が生まれるのだ。この「さやえんどう」「添寝」という物と事を「とも」という接続助詞で同列配置したことで畑の哲学や言語学や経験のようなものがそこに浮かびあがってくる。十五個の「狐日」を収斂すればこの句に行き着くのである。
 ところでこの「狐日」の題を見たとき、すぐに浮かぶのは狐日和というころころと変化する状態であった。狐の集会図が「つまさき立ち」によって引き出されたり、現代の政治事情にスライドされたりもしたが少し違う。それらは畑の持つ句のイメージに触れてこない。おそらく彼女の日常の心の底に漠とした動かないものの存在があり、表現を繰り返すうちにビジョンとして捉えることのできるものとして「狐日」ということばが置かれたのだろう。
  右耳をたたんでみずうみをひとつ
  前書きを象が泳いでいったきり
 これらは過去作品で触れた感触を持つ。
  聞き歩くぎいと動いてゆく貝を
 生きている貝を耳にあてて持ち歩くという。生に対するあえかな反発が「ぎいと動いてゆく」にみえる。畑には畑のあるべき句姿が見えていて時にはそれが「ぎい」と鳴くのかもしれない。

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