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本誌紹介

創刊号
〜コトバへの挑戦〜

先端へ  吉澤久良

 テーマ詠五句を含めた畑美樹の二十句のうち、十五句で身体が、八句で鳥獣虫魚が読み込まれている。この二つの偏りの交錯するところに畑美樹の位置がある。
夕暮れの大腿骨のありがとう         畑美樹
夜だったはずの鎖骨の水たまり
そのかわりくすりゆびの骨を濡らす
 三度も繰り返される「骨」。「夕暮れ」「夜」という時間変化と取り合わせられている「骨」のイメージは、野ざらし(風雨にさらされて白骨化した人間の骨)を連想させる。野ざらしは鳥獣虫魚とともに風雪や天日の下にある。美樹作品における人間は、文明や文化に保護された人間ではなく、自然の中で曝されている人間存在である。ここに、例えば杜甫の詩にあるような、悠久の自然に対する卑小な人間の焦燥詠嘆や、中世の無常観の宗教的晦冥はない。アニミズム的な世界観がある。「骨」は自然に対峙する人間存在の核としての堅固さを持たず、曝されているという身体感覚のレベルでコトバ化される。この身体感覚の背後に、野ざらしになっていく〈時の流れ〉の感覚がかすかに匂う。美樹作品に登場する事物のはかなげな風情や浮遊感の源泉は、この太古からの〈時の流れ〉の感覚にあるかもしれないと想像している。
ささやきながら蝶の背を押す         畑美樹
舌先に触れているのは鯨の瞳
 「蝶の背」や「鯨の瞳」との親和感。「ささやきながら」「舌先」という繊細さ。これは愛着とか愛情とかいう通俗的感情ではない。自己の存在が様々な生き物や木や岩などに近い位置にあるという認識からきている。「背」を押され、「瞳」に触れられているのは作者自身であり、また、読者自身であるかのような錯覚に誘導されるのだ。
肉体を盾にほろほろ鳥眠る          畑美樹
 「肉体を盾に」という措辞に、現代人はやるせなさや孤独を見てしまいがちだろう。しかしこの句の眼目はそのような感情ではなく、「眠る」という生き物の生理の揺るぎなさである。その後で、「ほろほろ」という音韻に様々な情感を擬して読む自由は、読者のものだ。こうして、句は軽やかに読者に手渡されるのである。

エリジウム踵を削る音がする       清水かおり
ジギタリス握る一体の朽野
 この対になった二句に挟まれた十五句の作品空間に、清水かおりが書いているのは世界のきしみである。「エリジウム(ギリシア神話で、神々に愛された人々が死後に幸福な生活を送る野)」という「楽土」で、なぜ「踵を削」られねばならないか。その理由は「エリジウム」とは予定調和の「楽土」ではなく、「一体の朽野」でしかないからだ。「踵を削る」「朽野」という痛切は、楽園幻想に対する本能的不信感の反映である。
しずかにしないか既視の匙だろう     清水かおり
来歴を叫ぶ頭上のおんどり
 情報社会の喧騒と混沌の真っただ中で書かれた二句である。「匙」が「既視」で、「おんどり」が「来歴を叫ぶ」のならば、いずれも既知であり無用である。それらがわれがちに騒ぎ立てる中で、私たちの感性は鈍磨していく。
兆すからあれは内緒と鉄を打つ      清水かおり
象形のたった一度をゆるませる
 私たちは「内緒」で「鉄を打」ったり、「象形のたった一度をゆるませ」たりして、屈託をもてあまし、時間をうっちゃって日々を過ごしている。無為で孤独な情景である。「烈しい雨に」あって「天啓はやましい」と感じたり、「冷えながら芒の禁忌言い合」ったりして、内面が痙攣的に揺れたりすることもあるだろう。すべてささいな断片であり、現代人の引きつった心が見える。しかし、清水かおりの目的は日常の断片のスケッチではない。スケッチとは冷静な観察者の行為であり、かおりの情念はかおりをその枠内にとどめさせない。
風景をつなぐ水の亀裂の向こう      清水かおり
日没に統べるモノ 質量を契る
 「亀裂の向こう」の「風景」とは、自己の眼前の現実を指し、それを「つなぐ」ことに、かおりが句を書く根本的な動機がある。「つなぐ」とは自己の生を救済することである。その意識があるからこそ、「モノ」は「統べ」られ、「質量」は「契」られるのである。この能動性がかおり作品のもっとも重要な本質である。それは傍観者ではなく当事者になる意志であり、このダイナミズムのために、かおり作品において世界はきしむのである。

 兵頭全郎は句からカタチ以外を削ぎ落としている。全郎にとってカタチはコトバの実験装置である。であれば、実験の成否の判断が〈読み〉の実質になる。その検証の過程で評者は逆に、自分の書き方を問われることになる。
葉書き葉隠れ秘め事は分刻み        兵頭全郎
ティーポット泳ぐ寡黙な詩人の夜
 「こと・の・は」の六句は「葉」というコトバを軸に書かれている。「葉書き」の句は、「葉書き」から音韻的近接性で「葉隠れ」に飛び、「隠れ」から「秘め事」を引き出す。「分刻み」は「は・ひ・ふ…」というハ行音のつながりだろう。コトバの連鎖ゲームである。一方、紅茶の「葉」から書かれた「ティーポット」の句は違う作りである。「寡黙な詩人」の周りで漂う紅茶の葉のような有象無象が「泳ぐ」情景は、疎外感孤独感のイメージ化だろう(「ティーポット」を「詩人」の想念と取る読みもありうるが、句が小さくなるので私は取らない)。器物の存在感を無機的な筆致で描けるのは、全郎が思いを書こうとしていないからだ。旧約聖書の「アダムとイヴ」に飛んだ句、「目には青葉山時鳥初鰹」(山口素堂)と「万緑の中や吾子の歯はえそむる」(中村草田男)の二句に飛んだ句。コトバから書く書き方にはいろんなバリエーションがありますよ、と全郎は言いたいのだ。ただし、〈コトバ遊び〉ならばパズル的感覚刺激で終る。その試行の中でどう主体性を確立するかが全郎の方法論の壁である。
イカロスのちゃぽんと蛇口よく回る     兵頭全郎
歪な黒の水滴 ヘロの灯火
 「イカロス」の墜落を「ちゃぽん」と茶化し、「蛇口がよくまわる」程度のことだといなす悪意。「歪な黒の水滴」という「ヘロ(スパルタ市民共有の奴隷)」の鬱屈、怨念のイメージ化。「トロイア回遊」はギリシア神話やホメロスの叙事詩に広く材をとったためか、「こと・の・は」よりものびのびとした印象がある。「トロイア回遊」の方向により豊かな可能性があるように私には思える。ただ、それは方法論の差によるものかもしれないとも思われる。

テーマ詠【空間】
乱立の円柱「夜です」と囁く       清水かおり
 「囁く」の主語は「円柱」の間の闇(夜)と読んだ。とらえどころのない空間のさなかに放置され、耳元まで包まれた闇に自己の存在が溶け出し拡散していくような心もとなさ、孤独感、戦慄、放心。このイメージが精神の原風景的なものとして普遍化されているために、読者もまた、「夜です」という囁きを聞くことになるのである。
両端を結んだ空が一食分          兵頭全郎
 「空」の両端を結び、それが「一食分」だと全郎は言う。抽象や漠然をモノ化し、知性によって認識しようとする志向である。コトバとは世界を分節し認識する道具であったことを思い起こすと、右の志向はコトバそのものにこだわる全郎の方法論と同根である。「空間」という茫洋としたテーマで、「結んで」「一食分」と措辞が有限性限定性の方向を向いているのは偶然ではないだろう。
からだからこぼすみずいろの重力       畑美樹
 畑美樹は全郎とは対照的に、あるものをあるがままに受け入れる。「みずいろの重力」は世俗的しがらみや束縛の喩ではなく、世界を受容する感性を暗示する。同様に、「こぼす」とは喪失や乖離ではなく、充満や横溢を意味する。世界と一体化する感性は、主体性の喪失であるか、存在の豊饒であるか。評価は読者の個性にゆだねられる。

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