Live-Leaf

本誌紹介

創刊号
〜コトバへの挑戦〜

しんしん。  畑美樹

 〈しんしん〉としている。深深、そして津津。深く静まりかえりながらも、津津とあふれ出るものが止まらない。
 言葉というものを、清水は心底信じているのではないか。今回、こうして並んだ句を前にして、言葉に対する直立不動の信頼を思った。
  エリジウム踵を削る音がする
 エリジウムという楽園で出会った、丸い背中。何をしているのだろうか—。その背中の群れは皆、しゃがみこんで踵を削っている。踵に溜まったもの。それは、楽園では決して口に出してはならない不信であり、不義であり、つまり信頼の対極にあるものたちだ。やがて彼らは立ち上がり、愛と信頼にあふれた楽園の一員として再び集うだろう。その近未来を清水は知っている。聞こえている音とは、その近未来を指すのだ。
  天啓はやましい 烈しい雨にあう
 天啓がやましいはずはない。楽園と同じように、愛と信頼は降り注がれる定め。しかし、一瞬のスコールの間にだけ、やましさを見せてもいい、見られてもいい安心感に包まれる。そのわずかな時間こそ、清水は待ち続けている。踵を削る音が導いてくれる近未来のように。
 言葉に対する直立不動の信頼−と書いたが、清水のそれは、句の中に成立させる世界、世界観にもつながっている。言葉に対する姿勢は、すなわち、自身を取り巻く世界に対する姿勢なのだ。世界は信頼すべきもの。しかし、時に烈しい雨にあたりながら、休むべきもの。その「べき」のあたりを、清水の言葉は、深深と、津津と進んでゆく。
  風景をつなぐ水の亀裂の向こう
 水の亀裂とは、何だろう。自然界であれば、流れ落ちる滝の一瞬か、あるいは、烈しい雨の一瞬か。日常生活の中でも、キッチンや庭先でふとした瞬間に、蛇口やホースからの水の流れは、思いもかけない方向にねじれ、亀裂を生じる。それを亀裂と感じるところがまず清水の世界観であるのだが、さらに、それをつなぐ、と表明してしまう。世界を信頼すればこそ、生じた亀裂(不義)も、自身の中で、自身のこころで、信頼のかたちへとつないでゆくのだ。
  来歴を叫ぶ頭上のおんどり
 そして、そうしたすべてを受け容れ、直立する清水の頭上で叫ぶのは、めんどりではなく一羽のおんどり。それは、この社会を象徴するもののようにも思える。これまでの成果を、信頼の証を、不義の歴史を、きょう一日の信頼と不義のすべてを吐き出さなければ、明日の朝、おんどりたちは再び世界の朝を叫ぶことはできないから。
 女性としてこの世界と向き合うことは、男性として向き合うこととは、違う。どうしてもそこに区別は生まれる。もちろんその区別を否定的にとらえているのではないけれど、私はこの句に、強い女性性を感じ、これまでの清水の作品をもう一度この視点で読み直してみたい、とも感じている。
  日没に統べるモノ 質量を契る
 そう、日没に統べるモノ。これこそ、おんどりたちが叫んでいたモノたちなのではないのか。そしてまた、やましさを懐に降り注ぎ続ける天啓なのではないのか。おんどりたちの一日も、天啓も、そして清水の言葉と世界への信頼も、今日いちにちで終わるものではもちろんない。しかし、日没を合図に、とりあえずはおしまいにできる。逆に言えば、日没がやってこなければ、とりあえずのおしまいを迎えることはできない。商店のレジスターのように、今日を一旦閉じて、そして、明日もまたこの続きがあることを契るための質量を、清水はしっかりと受け止める。頭上におんどりを抱きながら。

 そして、おんどりを頭上に訪れた「空間」には—。
  蝉裏返りうらがえり堕落秘話
  巻貝に帝都ポスター張りに行く
  乱立の円柱「夜です」と囁く
 短い命の役割を終えたかに見せた蝉の、最後の一瞬のきらめき。貝という秘めやかなかたちと帝都というアンニュイかつ不可解な時空。太陽の営みと交わることなく、時間だけを食いつぶす地下街。信頼する「べき」世界には、ほんのわずか視点をずらしただけで、認める「べき」世界がある。
  晴ればれと仮説の鋼 分解す
 言葉と世界への信頼への問いかけは、清水にとって未来永劫、日没のたびに一旦閉じられ、翌朝おんどりの一声によって再び目覚めさせられ続けるのだろう。仮説も、そうやって繰り返し繰り返し、訪れ続け、分解され続ける。そこに、清水が晴れ晴れと、意気揚々と立ち向かうことができるのは、言葉への信頼があるから。

  兆すからあれは内緒と鉄を打つ
 清水かおりの深みにはまると、鉄さえもきっと、鋼ではいられない。この雑詠のタイトルは「楽土」。
 ああ、楽土に響き渡るたたらの音よ。

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