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本誌紹介

第2号
〜融解し浮遊するコトバ〜

融解し浮遊する存在  兵頭全郎

 今回のテーマである「融解し浮遊するコトバ」をそれぞれがどう消化してくるか。何度も句を読み返すうち、コトバが「存在」へと変わる瞬間に、三人の個性が表われているように感じた。

  〜対の感触〜 吉澤久良【感触】より

  《急》凶眼の月 燎原に棒一本
  《緩》空は合板 世界は火事なのだろう
 十句ずつ《急》と《緩》とに分けられた吉澤作品のそれぞれの冒頭だが、はっきりと対を成している。「燎原に棒一本」という静の景と「世界は火事」という状況。一見、緩急が逆に取られそうだが、その空気感は表題通りの「感触」である。背景に置かれた「凶眼の月」の刺々しさが、動かぬ「棒一本」に触れさせない気を放つ。一方「合板」の空を見上げれば、燃え盛っている「だろう」世界のぬるさは肌に届くか届かないかだ。言葉によるイメージの構築が吉澤のベースにあるが、今回の【感触】というタイトルは、ストレートだが視覚以外の感覚を読者に渡そうとする狙いがあるのだろう。  今回の全体テーマである「融解」について、私も作句の際に思案したが、言葉を「知覚」から「体感」へと変換させる(=言葉の消化)のは、川柳では意外に難しい。言葉がキャッチーになればなるほど、その句は言葉の中だけで処理されてしまう。もちろん説明して書くわけにはいかないので、策を練るわけだが、【感触】というタイトルと《急》《緩》の句分けが、ここではかなり効いている。
  《急》朧夜の荒地野菊を分け老婆
  《緩》夏の潮記憶の林檎漂流す
 こちらも「老婆」のスピードを「朧夜の荒地」「野菊を分け」で加速させ、その音や匂いを想像させる。後句の「漂流す」の緊迫感を「記憶の林檎」に転嫁させ「夏の潮」の温かさで丸め込む。これらは「感触」としては体感しずらいかもしれないが、例えば「老婆が触れる野菊」あるいは「老婆に触れられた野菊」の感触を想像してみるのも面白いかもしれない。ただ、この読み方を吉澤自身が望んでいるかどうかは別である。
  桃の字に闇をイメージできない奴ら
 「桜闇」という語が使われるが、桃闇とは言わない。一斉に咲く桜の華やかさと比べれば、今見られる桃では太刀打ちできないだろう。光があっての闇である。と説明したところでこの句には何もない。ここでは「字」と「奴ら」である。「イメージせよ」と言わず「できない奴ら」と書くことで、読者はこの「字」と対峙する。句に込めた作者のメッセージを考えるとき、この句が最も吉澤の現状を表現していると読んだが、どうだろう。

  〜月の温度〜 畑美樹「運行」より

  肩幅も腰幅もあり月もあり
 畑の句には「肉体」が多く描かれているが、今回のこの句では文字としてのみ扱われていて興味深かった。肩と腰の部首である「月(にくづき)」は、もちろん「肉」から変化したものだが、句に「月もあり」と書かれた月には、天体と肉との両方に読みを拡げる必要がある。存在の証ともなる「幅」について、天体の月のそれは、人間から見て「三日月」や「半月」のように光の当たる部分をもって「幅」とされるが、当然ながらほぼ球体である月自体の幅はそう簡単には変わらない。人の都合によって、勝手に幅を変えられているのである。
 この視点は、本誌前号「Unreal 兵頭全郎を読む」の中で畑が書いた《たとえば、冬の空に輝くオリオン座は、地球から見れば、一枚の平面に描かれた竪琴の絵のように見えても、宇宙に漂いながら見れば、そこには何光年もの奥行きがあり、全く関わりなく存在している。竪琴の形に見えるのは、地球というただ一点からのみだ。》と重なる。つまり実体として、自身である「月・肉体」の存在と、他者から見た「幅」としての存在。それらを淡々と「〜もあり〜もあり」で認めてしまう力技なのだが、これは文字として肉体をドライに扱った結果だろう。例えば「心臓も腹筋もあり〜」としてしまえば、月は肉体そのものの温度を持って読者に直接手渡されてしまう。「〜もあり」では片付かない。
  夕食の支度のように月がゆく
 今号では四句で「月」が詠まれているが、「剥離」のテーマ詠として読むと、ここでの「月」が最も肉体的であろう。「ゆく=逝く」と捉えると、「月がゆく」は精神と肉体との剥離の様であり、それが「夕食の支度のよう」といっている。おそらく多くの家庭で夕食の支度に一番手が込んでいるだろう。それでも毎日繰り返されなければならない「支度」には、生から死への変化が一瞬で済むようなものではなく、準備から後始末まで含めそこそこ厄介なものであることが含まれていよう。
  ささやきのそのはんぶんをしたたらす
 私は畑の「ひらがな句」ファンである。音・形・文節を直感的に味わえるからである。この句では「その=園」と読めば映像化しやすいが、サ行の音のスピード感と「したたらす」の粘り気を同時に体験するほうが面白い。夕食の〜の句のように意味を掬うより、読者の直接的な体感の方が、感動は強いと思う。

  〜魂のカタチ〜 清水かおり《細部に宿る》より

  空色の器に蝉を入れる人
 成虫になった蝉なら、一週間ほどだが自由に空を飛べる。そんな蝉をわざわざ「空色の器」に「入れる人」がいるという。前号では「楽土」を描いた清水だが、今号はかなり現世に近い位置で書いている。もちろんそんな人がこの世にいるとは思えないが(と書きながら、ふとこの蝉は死骸かと思ったが、やはり生きていると思う)、何かの儀式か、あるいは執行かもしれない。
 十六句を経て《細部に宿る》というタイトルに行き着く仕掛けだが、まず無題としてこれらを読み、このタイトルを確認してからもう一度句に戻ってみる。「宿る」にどうしても「魂」という言葉が付いてきてしまったので、いずれにも入魂や抜魂のイメージが重なった。この空色の器は、蝉の魂を抜いてやることで、それを行使した人に新たな魂を授けるものではないか。とすると、この人はなんとも俗っぽく卑しい。
  腰椎に生えている売れ筋の木
 この「売れ筋の木」もいかにも俗である。当然売られる側の木にしてみれば「売れ筋かどうか」はどうでもいいことだろう。それよりも「腰椎に生えている」ことがこの木のプライドであり、その魂を売り払おうとする人の存在がまた卑しいのである。
  オブラートあげる 間引かれよ
 清水の句には、時折ぐっと短縮されたものがでてくる。この句をこのまま読めば自殺の手ほどきであるが、注目すべきは「あげる」のあとの「空き」であろう。定型で言えば四音が隠されている。私はここに「間引かれよ」と指図する者の存在を見た。多分間引かれるまで、ただただオブラートのみを渡しつづけるのだろう。先の二句に比べて、こちらの人には孤高な感じがある。指図されている方の姿が見えないからだ。四音の省略で想像させるものを造り、さらに想像させない役割も持たせる。ぜひとも盗みたいテクニックである。
  子午線は隙なく鉛筆研ぎ果てる
 とうとう生物は姿を消した。しかしこれまでのどの句よりも魂の躍動がある。形のないものをいかにして動かして見せるか。人形遣いがその目線で魂を乗り移らせるように、言葉の隅々にまで「隙なく」神経を行き届かせなければならない。その意味では「ルートヴィヒの水」に対する上句はやや物足りなかった。

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