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本誌紹介

第2号
〜融解し浮遊するコトバ〜

【Melt down】を読む  吉澤久良

  干涸らびた光なく火の避難口
  山茶花のわんさか扉切られけり
  さくら缶 錯乱 落差から参加
  リムジンは無人 神武の残りの理
  だらしないもしかしたらもない晒し
 音韻でどれくらい遊べるか、である。「干涸らびた」は「ひ」の頭韻。「さざんか」と「わんさか」の相似した音の絡みから、首を切られる花のイメージへとつながる。ないものねだりをすると、「花」は「か」だが、「果」なら「くゎ」なので、そこまでいけたら「わ」音に響いてもっと面白かったかもしれない。「さくら缶」「リムジン」の句は同音反復、もしくはアナグラム的な面白さ。「リムジン」から「無人」や「神武」を引けば、「残り」は「リ(理)」になるというおまけ付き。一番面白かったのは、「だらしない」の句だった。「だらしない/もしかしたら/も/ない晒し」とも「だらしない/も/しかし/たら/も/ない晒し」とも切れる。こうなると、コトバが音素に分解されて輪郭を失ってしまう。コトバから日常的意味を切断することによって、川柳は新たなフィールドを獲得したが、全郎はさらに、そのコトバそのものさえおちょくっている。表題の【Melt down】をもっとも体現している句と感じた。ただし一方で、わかりにくい句もある。
  輪から粉さては大人のトナーだな
  赤い他人が赤い私と立つ平野
  迷路の壁に描く迷路の迷い方
 「粉」から「トナー」へのつながりは理解できるが、「輪から粉」への飛躍、「トナー」と「大人」の関係がわからない。あるコトバからここまで飛躍できますよという実験かもしれないが、それだけなら恣意的な飛躍でしかないと思う。句語と句語の関係、その緊張感、一句がもたらすイメージという観点から句を見ると、この句は読めなかった。「煮崩した遺跡の出汁も乾くころ」「ゆっくりはこわい 今日なく欄干」も同様だった。「赤い他人」は「赤の他人」からの連想と思われるが、そこから「赤い私」や「平野」への飛躍はわからない。「迷路」の句は同音の繰り返しだけでなく、「通り方」ではなく「迷い方」なのだ、というひねりがあるが、真っ正直に裏返しただけでは理に落ちる。
 今号の全郎作品の中心は、「なく」の十句の群作である。この十句には、「なく」をどう読むかという全郎の問い(遊び?)が仕掛けられている。その中から、イメージが浮かぶという観点で選べば次の四句になる。全郎がコトバにこだわる書き方だけではなく、こういう書き方も模索しているということなのだろう。前掲句の不徹底はこういう模索をしているせいかもしれない。
  ヒエログラフ確かなことにいのちなく
 書かれているテーマは時間だろう。「ヒエログラフ(ヒエログリフとも。古代エジプトの象形文字)」を上五に置いて、まず遠い昔を呼び出す。「確かなこと」に「いのち」が「無い」のなら、それは「確かなこと」とは言えない。「確か」に見えるようなことも実は「確か」ではないということなのだろう。「ヒエログラフ」は石や木やパピルスに書かれたであろうから、それが摩滅腐食していく経過は誰でも想像できる。ここで、あらゆるものが時の流れの中で風化していくはかない存在であることに無常を感じるか、それとも、はかない存在であることを認識しつつ生の一回性に価値を見出すか。読者はその二つの読みの間で揺れるのではないだろうか。それが全郎のねらいだろう。
  神はなく川は一回だけ曲がり
  驟雨なく遠く遠くの豆もやし
 「神は」の句は鳥瞰景と読んだ。「一回だけ曲がり」ということは、一回しか曲がらないことであり、むしろ外部からの影響を受けず真っ直ぐに流れていく川の姿が印象づけられる。「神は無く」とは、その光景の中に神は不要であるということなのだろう。そっけなく風景だけが即物的に放り出されており、「神」という人間の概念や人間そのものが掃き出されていて清潔感がある。空間をイメージさせる句であるが、時間をも感じさせる句である。一転して、「驟雨なく」の句にあるのは人間の心理的距離である。人間の心理が貼りついているから「豆もやし」という卑小なものが配されたのだろう。「遠く遠く」と反復しているのは、願望の強さを想像させる。別の見方をすると、疎外感の強さであり、願望は実現されないだろうとの予感がそこはかとなく漂う。しかし、何から疎外されているのかは明確ではない。それがつかみきれないから、人間の心は「豆もやし」の卑小に落ちていくしかない。「なく」は心理的ニュアンスを含んだ「泣く」か「啼く」が合うようだ。
  なく道よ 地平360度
 この「なく」は、文法的に「無く」とは読めない。かといって「泣く」は感傷的過ぎる。「鳴く」ならば、道が鳥の鳴き声で包まれている情景になり、世界への親和感がテーマになりそうだ。そう読んで癒しを求めるのも一つの読み方である。ところで、私も苦し紛れに使ったことがあるのだが、「よ」という措辞は読者へのもたれかかりとなって、表現をゆるめる危険性がある。「地平360度」は世界の原初的な潔さや荒ぶる空間をイメージさせる。そうなると、結局「無く」が一番しっくりくるのだが…。

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