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本誌紹介

第2号
〜融解し浮遊するコトバ〜

『運行』を読む  吉澤久良

  コバルトブルーの水をちいさく呑む
  天井いちめん山吹色のうみ
  雨だれの向こうに黙礼のカラス
 「水」とは畑美樹にとって世界の根源であり、世界との親和感を象徴するキーワードである。「コバルトブルー」の句は畑美樹の自然体なのだろう。畑美樹にとって「カラス」は、一般のイメージとは違って親しみ深い鳥のようだ。この三句の雰囲気は、美樹作品の身体感覚として次のような句にも表れている。
  鎖骨から遠く離れて湾の潮
  水面から水面へ置いてゆく舌
 「鎖骨」「水面」の句は、テーマ詠「剥離」の句である。注意すべきは、この二句において「剥離」しているのは身体と水とであることだ。畑美樹にとっては本来一体化しているものが「剥離」したという形で句が作られている。最初にあげた三句と同じように、畑は介在物なしでじかに世界の根源と対面し呼吸しているのである。自然と一体化し、自分の存在が無化していくというのが、畑美樹の身体感覚なのだろう。畑美樹の場合、自然と人間は対立しないため人間の卑小さや有限性に突き当たらず、自然の摂理を受け入れて限りなく軽く透明になっていくように思える。ここで読者は浄化を疑似体験するのだろう。その身体感覚を凝縮した句が次の句である。
  菜の花を詰めてくるぶし完結す
 けっして注目される花ではない「菜の花」。身体の中心ではない「くるぶし」。しかし、畑美樹に中心や上昇を志向する意識はない。中心も周辺もどのみち無化されるのだから同じなのだ。
  肩幅も腰幅もあり月もあり
  夕食の支度のように月がゆく
  目の玉を洗えば月が残るなり
  群集の小指の先の糸の月
 今号では四句の「月」がある。月には肯定的な一面と、狂気や無気味につながるダークサイドとがある。今号の畑美樹の「月」は前者でも後者でもないように思える。「夕食」の句が象徴的で、「月」は日々が流れていく中で一緒に淡々と流れていく。「運行」という表題は、この「月」のことではあるまいか。その悠久は人間の一生をはるかに越える。ここでも無化の感覚が働いている。
  まなかいにそっと忌野清志郎
  ただ赤をただただ赤を開口部
  六月を舐めてお返しいたします
 これらの句には首をひねる。「まなかい」の句は「忌野清志郎」という固有名詞しか残らない。「ただ赤を」の句は、表現のテンションが高く読者はついていけない。繰り返しが逆効果になっている。「六月」の句の「いたします」は冗長で、「六月を舐めて返す」にあと一つ別の要素を加えた方が句の精度は上がったのではないかと思う。
 今号の美樹作品で注目した句が二句ある。一句目が
  丸まって蛸の頭を剥いてゆく
という句である。畑美樹には次の印象的な句がある。
  一本の水を買う正確な姿勢
「姿勢」や「位置」や「正確さ」は美樹作品の頻出語であり、その系統の句は本号では次の句だろう。
  ふるさとの正しい位置を便りする
  まなうらの一直線を抱かれよ
 だから「丸まって」はやや意外の感がある(もっとも畑美樹には「まるまって洗う足の裏のくぼみ」という句があるのだが)。それだけではなく、「蛸の頭を剥いてゆく」にかすかに匂う無惨は今までの美樹作品にあっただろうか。「蛸の頭」が剥かれる時、剥かれるのは蛸だけか。むしろ、「剥かれている私たち」というイメージがどうしようもなく立ち上がってくる。今までの美樹作品とは異質なこのイメージが、「丸まって」という、畑にしてはややイレギュラーな措辞に表れたのではないだろうか。
  空なかばアリスはあぁと言ったきり
 これが注目したもう一句である。今までの美樹作品は句の主意なりイメージなりが一句で完結していた。「なかば」の中途半端さ、「あぁ」の不明瞭さ、「言ったきり」の言いさしの形。掲出句ではすべてが曖昧に放り出されている。この句は雑詠冒頭の句なので、その曖昧は作者の意図するところと理解すべきだろう。私は以前に、広瀬ちえみについて、鮮明であった句の像がぼやけだしてきたことに関して以下のように書いたことがある。
 《このような尻切れトンボの言いさしには、読者の不安をかきたてるものがある。そのような書き方の句が書かれるようになったのはなぜか。世界が深くなり、テーマが大きくなったために、物語を完結させることが無理になったのだろう。絵が画面をはみ出してきたのだ。不条理で不可解な生の現実がテーマとして、より重く意識されてきたのである。》(「『物語』のその先へ」 『杜人』218号)
 一句だけ取り上げて、畑美樹の書き方が変わりつつあると言うのはいかにも性急過ぎる。しかし、畑美樹の句が今までと違った広がりを持ちはじめる兆しであるかもしれないと思うと、次号の作品が楽しみになってくる。

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